2 宮城県監獄署沿革

は じ め に 宮城刑務所(宮城集治監)は市民なら誰でも知っている施設で、かつてはその獄舎が六角大学と呼ばれ市民から親しまれていた。しかし、仙台の片平丁に宮城県監獄署という施設があったことは殆ど忘れ去られてしまった。 藩政時代の牢屋が明治になり…

1西南戦争余話続編完成

30数年の歳月を掛けて余話の続編が完成しましたので公開します。まずは表紙から始めたいと思います。 目次は次のとおりです 目 次 宮城県監獄署の沿革・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3 明治初期の囚獄・・・・…

和久宗是秀吉への帰参を促す

政宗小田原帰参 天正18年(1590)の秀吉の小田原征伐の際には、宗是(55歳)は豊臣家の使者として伊達政宗に出陣を促し(片倉景綱の説得もあり)政宗もこれに応じて参陣した(治家記録)。激動の戦国乱世を生き、豪放な性格を持つ宗是は同じく豪胆な政宗の気風…

和久宗是・秀吉の祐筆になる(2)

豊臣秀吉の右筆になる 豊臣秀吉(写真)はいわゆる「中国大返し」により本能寺の変の11日後の6月13日、山崎の戦で明智光秀を撃破する。宗是も秀吉軍と共に山崎の戦いに従軍し、戦後豊臣秀吉の臣下(家来)となる。その後秀吉の*右筆(世臣家譜巻六)となり更に…

大郷町川内御みな沢に屋敷を構えた戦国武将(和久宗是)

和久宗是 天文4年(1535)〜元和元年(1615)5月7日 安土桃山・江戸前期の武将。河合某の子。通称又兵衛。出家して自庵宗是と号した。三好氏の臣和久掃部頭の女婿となり、その家督を告いだ。はじめ三好氏、さらには永禄11年(1567)・宗是(32歳)室町幕府第15…

千葉愛石と山岡鉄舟(1)

山岡鉄舟・・幕府飛騨代官、小野朝右衛門の5男に生まれ22歳のとき、同じ幕臣の山岡静山の妹、英子の婿になり、山岡と改名した幕府講武所で剣道を指南し、文久3年(1863年)から浪士組となり京都に赴任するが、攘夷派の清川八郎らと対立し江戸へ戻る…

マリア観音像(4)

幕末の頃一人の旅人が南から吉田川を渡り粕川に入ってきた。この旅人こそ隠れキリシタンで大郷の南部の山間で秘かにマリア観音を礼拝していたが、役人の取締りが厳しくなり北の方にマリア観音を隠匿しようと粕川まで来たが、役人の詮議が更に厳しく捕縛され…

マリア観音(3)

高さが60cmほどで鮮やかな原色で彩られ、頭には鉢巻のような紐帯があり、髪は総髪にして子供を抱き、腹部に正面一杯に花弁のような大きい文様があしらえてある。この像を間近でみると子供を抱く姿はマリア観音、顔の形はイエス・キリストを彷彿させるよ…

マリア観音(2)

マリア観音像・・豊臣秀吉のバテレン追放令や江戸時代のキリシタン禁止令で弾圧を受けた者達によって礼拝対象とされたマリア観音菩薩。その多くは(写真)中国製の青磁、あるいは白磁の慈母観音であった。慈母観音は中国葉発祥の観音菩薩像で、稚児を抱き慈…

大郷町粕川糟川寺のマリア観音(1)

宮城県内のキリシタンは伊達政宗存命中は領内は他領にくらべ、キリシタン信徒にとって温室の中のような安住の地であったが。寛永13年、大樹にも似た政宗が病死する。さらにそれに追い打ちをかけるように、よく14年に「島原の乱」が起きる。 崩壊しかけて…

千葉立造の生家

写真生家 この地に今から160余年前に立造は誕生した。父千葉重之進は仙台藩の下級武士で武山勘左衛門に奉公していたが家は貧しかった。

立造の故郷の川・吉田川

千葉立造が生まれた宮城県黒川郡大郷町の中央を流れる吉田川、立造も幼少の頃この川で遊んだに違いない。昔は品井沼という大きな沼がありそこに吉田川が注いでいた。洪水常襲地帯で農民の暮らしは貧しかった。

千葉立造の経歴(3)

無事東京に着きその後岩佐先生から重要せられ、明治8年岩佐病院設立後は副院長徒なり、また塾生の指導係として塾長にまで登用された。立造氏曰く「予の今日あるは松島の葉山権現の加護によると」然り立造氏が明治2年、徒手空挙帝都に出て岩佐病院の学僕に…

千葉立造の経歴(2)

岩佐病院にいること3年刻苦勉励したが,明治4年脚気症のために帰省の止む無きに至った。 翌5年岩佐純先生が明治天皇の待医となられたが,予てより立造の人物を惜しみたる岩佐先生が 切に帰京を促してきたが脚気症尚癒えざる「男子志を立て朝に道を開き夕に…

累卵の意味

累卵・・・・積み重ねた卵解釈・・・・いつ崩れるか分からないような非常に危険な状態の例え出典・・・・中国の戦国時代の「韓非子」十過・「故曹小國也,而迫於晋・楚乃間危猶累卵也訳文・・・・故に曹は小国にして,晋・楚の間に迫る。危うきこと猶累卵の如し

累卵の碑を糟川寺に建立した千葉愛石(本名立造)の経歴(1)

弘化元年(1846年)宮城県黒川郡粕川村(現大郷町)に生まれる。幼きにして聡明, 学を好むも家貧しく油を買う銭もなく線香の灯りで読書し,河原の砂で習字をする。 その後医学を志し,慶応元年(1865年)仙台藩医赤坂塾に入り修行二カ年、粕川に医 者…

累卵の碑(柴 修也)

宮城県黒川郡大郷町粕川の糟川寺にある奇妙な碑 この碑には意外な事実と明治初期の有名人の名前が 記録されている。 山岡鐡舟・勝 海舟の句がこの碑には刻まれているのである。 一体どんな意味があるのだろうか,我々が現在揺れ動く社会の中で 生活している…

宮城県黒川郡大郷町粕川の粕川寺にある高橋泥舟の碑

糟川地名の由来

和名抄によると黒川郡は新田・駅家・白川の3郷に分かれ、その中でも白川郷は郡の東部にある大谷・糟川・大松沢の三カ村で、後世の大谷郷の地域であったようである。吉田東吾(地名学者)は「この郡に黒川の名のあることを思えば、その対象からして白川とい…

糟川寺の歴史(品井沼干拓)

宮城県の臍と呼ばれる大郷町、この町の中央を流れる吉田川。かつては品井沼と呼ばれる大きな沼があり、いた。その沼に注いでいていた。雨が降るたびに吉田川が氾濫して人を寄せ付けない土地柄でもあった。江戸時代に入り品井沼の干拓工事が進むと共に沼の沿…