千葉愛石と山岡鉄舟(1)


 山岡鉄舟・・幕府飛騨代官、小野朝右衛門の5男に生まれ22歳のとき、同じ幕臣の山岡静山の妹、英子の婿になり、山岡と改名した幕府講武所で剣道を指南し、文久3年(1863年)から浪士組となり京都に赴任するが、攘夷派の清川八郎らと対立し江戸へ戻る。明治元年(1868年)から徳川慶喜公の警護に当たる。
 戊辰戦争の祭、将軍慶喜公が恭順の意思を示していることを官軍に知らせるために、勝海舟の使者として駿河西郷隆盛と会見し徳川の存続を説いた。それにより、勝海舟西郷隆盛の会見が成立し江戸城無血開城の道が開けた。維新後は静岡県茨城県知事等を歴任後明治6年(1873年)からは明治天皇の側近として待従や宮内少輔などをつとめた。この頃に千葉愛石が山岡の主事医となり交際が始まる。