和久宗是・秀吉の祐筆になる(2)


豊臣秀吉の右筆になる
豊臣秀吉(写真)はいわゆる「中国大返し」により本能寺の変の11日後の6月13日、山崎の戦で明智光秀を撃破する。宗是も秀吉軍と共に山崎の戦いに従軍し、戦後豊臣秀吉の臣下(家来)となる。その後秀吉の*右筆(世臣家譜巻六)となり更に豊臣秀吉の*昵懇衆の一人となる。    秀吉亡き後政宗に招かれて家臣となるが、室町幕府の滅亡から統一政権の誕生まで、激動の時代を渦巻の中心にあって眺め、動乱を肌で味わってきた人だけに、こういう練達の人を味方としていたことが、どれほど政宗に役立ったかはかり知れない。                      
* 右筆(ゆうひつ)・・中世、近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成なども行い、事務官僚としての役目を担うようになった。
* 昵懇衆・・秀吉と特に関係の深い家来を昵懇衆と称していた。