マリア観音(3)


 高さが60cmほどで鮮やかな原色で彩られ、頭には鉢巻のような紐帯があり、髪は総髪にして子供を抱き、腹部に正面一杯に花弁のような大きい文様があしらえてある。この像を間近でみると子供を抱く姿はマリア観音、顔の形はイエス・キリストを彷彿させるようで、明らかに我々のイメージしている観音像とは異なる。これはまさしく「マリア観音」であり、禁教当時の隠れキリシタンの心の支えになっていた物的証拠ではないだろうか。

マリア観音(2)



マリア観音像・・豊臣秀吉バテレン追放令や江戸時代のキリシタン禁止令で弾圧を受けた者達によって礼拝対象とされたマリア観音菩薩。その多くは(写真)中国製の青磁、あるいは白磁の慈母観音であった。慈母観音は中国葉発祥の観音菩薩像で、稚児を抱き慈愛に満ちた造形表現となっている。
 隠れキリシタンはこれに聖母マリアを投影してその偶像とした。中には菩薩像の胸に十字架を彫刻したり、国内で窯焼されたものであると考えられる。その形状は地域によってさまざまである。

大郷町粕川糟川寺のマリア観音(1)

 宮城県内のキリシタン伊達政宗存命中は領内は他領にくらべ、キリシタン信徒にとって温室の中のような安住の地であったが。寛永13年、大樹にも似た政宗が病死する。さらにそれに追い打ちをかけるように、よく14年に「島原の乱」が起きる。
 崩壊しかけていた仙台のキリシタンにとり、それはダブルパンチに等しい衝撃となった。かくして、神父も信徒も禁教令に狂奔する官憲の目を逃れ、野に隠れ、地に潜むいわゆる潜伏キリシタンの生活に入るのである。
写真・マリア観音が納められている御堂
 

立造の故郷の川・吉田川

 千葉立造が生まれた宮城県黒川郡大郷町の中央を流れる吉田川、立造も幼少の頃この川で遊んだに違いない。昔は品井沼という大きな沼がありそこに吉田川が注いでいた。洪水常襲地帯で農民の暮らしは貧しかった。

千葉立造の経歴(3)


 無事東京に着きその後岩佐先生から重要せられ、明治8年岩佐病院設立後は副院長徒なり、また塾生の指導係として塾長にまで登用された。

立造氏曰く「予の今日あるは松島の葉山権現の加護によると」然り立造氏が明治2年、徒手空挙帝都に出て岩佐病院の学僕になり以来20年

間苦欠乏に堪え備に辛酸を嘗め、その強固な意志と克己心とが立造氏の大望を完成させたのである。

 晩年幸福の身となり大正15年東京の谷中の全生庵の山岡鐡舟の墓の傍に眠る

千葉立造の経歴(2)

 岩佐病院にいること3年刻苦勉励したが,明治4年脚気症のために帰省の止む無きに至った。
翌5年岩佐純先生が明治天皇の待医となられたが,予てより立造の人物を惜しみたる岩佐先生が
切に帰京を促してきたが脚気症尚癒えざる「男子志を立て朝に道を開き夕に死すとも可なり」と
家族の反対を押し切って糟川寺に墓標を建てて死を覚悟して上京した。
千葉立造の墓(明治5年上京の際糟川寺に建立)