2 宮城県監獄署沿革

          は じ め に

 

宮城刑務所(宮城集治監)は市民なら誰でも知っている施設で、かつてはその獄舎が六角大学と呼ばれ市民から親しまれていた。しかし、仙台の片平丁に宮城県監獄署という施設があったことは殆ど忘れ去られてしまった。

藩政時代の牢屋が明治になり監獄則の制定により片平丁に明治10年7月に新築開庁した施設で、この移設には後の外務大臣陸奥宗光公さらに同時期に西南戦争の国事犯305名が収容されていた。国事犯達は自ら宮城県内の開墾を申し出て仙台市内、塩釜,野蒜、雄勝等で荒地の開墾、道路の開鑿、築港、石盤製作に従事して戊辰戦争後の宮城県の発展に大きな役割を果たしたまた市内の瑞鳳寺には獄中で死亡した7人の薩摩軍兵士の墓があり毎年鹿児島県人会の皆さんが墓参りを実施している。

平成2年NHK大河ドラマ翔ぶが如く」の放映の際に、宮城県に配置された国事犯に関する資料を纏めて「西南戦争余話」を出版したところ鹿児島県でも大きな反響を呼び、国事犯の子孫の方々から沢山の手紙や貴重な資料をいただいた。それらの資料等は閲読後倉庫に閉まっておいたが、今回のNHK大河ドラマ西郷どん」の放映を知り、改めて国事犯の子孫から来た手紙を読み直し、その中で貴重な記録を抜粋して後世に残すことを思い立ち、「宮城県監獄署沿革史」の中に纏めてみた。

先祖の貴重な体験を送ってくれた多くの方々は、既に鬼籍に入られてしまったと推察されるが、国事犯として宮城に配置され、宮城での生活を綴った貴重な記録を、このまま歴史の中に埋もれさせてしまうのは国事犯に子孫の方に申し訳ないので資料集として後世に残したい。

将来国事犯に興味のある人が、小生の意思を継いで更に宮城県に配置された国事犯の研究を引き継いでくれることを希望する。特に瑞鳳殿に眠る七人の薩摩軍兵士の功績はいつまでも後世に語りついで行きたいものである。

 令和2年4月1日                柴 修也 

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宮城刑務所正門・現在は取り壊しになり右側に移動している。
 

 

 

 

 

1西南戦争余話続編完成

30数年の歳月を掛けて余話の続編が完成しましたので公開します。まずは表紙から始めたいと思います。

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目次は次のとおりです

           目      次

宮城県監獄署の沿革・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3

明治初期の囚獄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5

明治10年2月15日西南戦争勃発・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6

明治10年7月宮城県監獄署落成・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6

明治10年11月3日西南戦争の国事犯の宮城県護送について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8

明治11年1月28日国事犯の宮城県開発・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21

明治11年5月6日国事犯草野藤助の日記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23

明治11年9月宮城県監獄署雄勝浜分監設置・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25

明治12年10月20日国事犯の宮城集治監に移監・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32 

明治12年12月2日陸奥宗光宮城県監獄署に収監・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34

明治13年3月1日雄勝分監宮城集治監に管轄換えになる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・39

明治14年7月26日宮城県監獄署の増築・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43

明治14年9月3日斬首の様子・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・44

明治15年2月1日獄内談弁、当時の監獄署の様子・・・・・・・・・・・・・・・・・・48

明治15年5月29日雲野香右衛門の監獄土産(1)・・・・・・・・・・・・・・・・・49

明治16年1月8日陸奥宗光離仙・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・53

明治17年7月藤澤幾之輔逮捕・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・54

明治17年9月1日凶悪犯鈴木安吉の脱獄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・58

明治18年1月17日脱獄囚の死刑判決・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・60

明治18年7月10日脱獄囚の死刑判決・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・61

明治36年3月宮城県監獄署は仙台監獄に改称・翌年宮城監獄仙台分監となる・・・・・63

昭和17年5月仙台分監廃止宮城刑務所に移監(現在の仙台拘置支所)・・・・・・・・・63

鹿児島県人七士之墓の歴史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・63

宮城県監獄署で病死した6名は誰か・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・70

昭和50年7月16日七士の墓の改装を鹿児島に呼びかける・・・・・・・・・・・・・72

昭和50年9月28日ようやく落成七士の墓・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・73

国事犯関連新聞記事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・73

平成2年12月河北新聞「西南戦争余話出版」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・74

平成3年8月15日河北新聞「七士の墓」初墓参「東京南州顕彰会」・・・・・・・・・76

平成3年8月17日本間宮城県知事からのメッセージ・・・・・・・・・・・・・・・・79

平成4年2月23日河北新聞祖父の形見は雄勝硯・・・・・・・・・・・・・・・・・・80

平成4年9月20日朝日新聞獄中で死亡した国事犯の霊土115年ぶりに里帰り・・・・・82平成9年12月27日河北新聞仙台白百合高校全国放送コンクール優勝・・・・・・・・84

平成20年9月7日河北新聞西郷隆盛の曾孫隆文氏「七士の墓」墓参・・・・・・・・・90

宇都宮市光明寺に眠る5人の薩摩軍兵士・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・93

あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・95

和久宗是秀吉への帰参を促す

政宗小田原帰参


天正18年(1590)の秀吉の小田原征伐の際には、宗是(55歳)は豊臣家の使者として伊達政宗に出陣を促し(片倉景綱の説得もあり)政宗もこれに応じて参陣した(治家記録)。激動の戦国乱世を生き、豪放な性格を持つ宗是は同じく豪胆な政宗の気風に惚れ込み小田原滞在中は政宗を手厚く遇した。秀吉の祐筆である宗是と政宗はかなり早い時期から互いに手紙を交わす間で親しい関係にあり、秀吉側近として入手した情報を政宗に流しては、その利益を守ってくれた恩人であった。(写真・伊達政宗

和久宗是・秀吉の祐筆になる(2)


豊臣秀吉の右筆になる
豊臣秀吉(写真)はいわゆる「中国大返し」により本能寺の変の11日後の6月13日、山崎の戦で明智光秀を撃破する。宗是も秀吉軍と共に山崎の戦いに従軍し、戦後豊臣秀吉の臣下(家来)となる。その後秀吉の*右筆(世臣家譜巻六)となり更に豊臣秀吉の*昵懇衆の一人となる。    秀吉亡き後政宗に招かれて家臣となるが、室町幕府の滅亡から統一政権の誕生まで、激動の時代を渦巻の中心にあって眺め、動乱を肌で味わってきた人だけに、こういう練達の人を味方としていたことが、どれほど政宗に役立ったかはかり知れない。                      
* 右筆(ゆうひつ)・・中世、近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成なども行い、事務官僚としての役目を担うようになった。
* 昵懇衆・・秀吉と特に関係の深い家来を昵懇衆と称していた。

大郷町川内御みな沢に屋敷を構えた戦国武将(和久宗是)

和久宗是

                              
天文4年(1535)〜元和元年(1615)5月7日 
安土桃山・江戸前期の武将。河合某の子。通称又兵衛。出家して自庵宗是と号した。三好氏の臣和久掃部頭の女婿となり、その家督を告いだ。はじめ三好氏、さらには永禄11年(1567)・宗是(32歳)室町幕府第15代将軍足利義昭に仕え、元亀4年(1573)足利義昭京都で挙兵するが織田信長に敗れ、息子義尋を信長に人質にだして降伏、事実上室町幕府は滅亡した。室町幕府滅亡後は和久宗是は織田信長に(写真)属した。
「お江」天正元年(1570)浅井長政お市の方との間に3人姉妹の末娘として小谷城滋賀県長浜市)で生まれる。
天正10年(1582)6月2日未明「本能寺の変」、此の時宗是(47歳)は豊臣秀吉の軍と共に備中高松城にて毛利軍の吉川経家と交戦中であった。

千葉愛石と山岡鉄舟(1)


 山岡鉄舟・・幕府飛騨代官、小野朝右衛門の5男に生まれ22歳のとき、同じ幕臣の山岡静山の妹、英子の婿になり、山岡と改名した幕府講武所で剣道を指南し、文久3年(1863年)から浪士組となり京都に赴任するが、攘夷派の清川八郎らと対立し江戸へ戻る。明治元年(1868年)から徳川慶喜公の警護に当たる。
 戊辰戦争の祭、将軍慶喜公が恭順の意思を示していることを官軍に知らせるために、勝海舟の使者として駿河西郷隆盛と会見し徳川の存続を説いた。それにより、勝海舟西郷隆盛の会見が成立し江戸城無血開城の道が開けた。維新後は静岡県茨城県知事等を歴任後明治6年(1873年)からは明治天皇の側近として待従や宮内少輔などをつとめた。この頃に千葉愛石が山岡の主事医となり交際が始まる。

マリア観音像(4)


 幕末の頃一人の旅人が南から吉田川を渡り粕川に入ってきた。この旅人こそ隠れキリシタンで大郷の南部の山間で秘かにマリア観音を礼拝していたが、役人の取締りが厳しくなり北の方にマリア観音を隠匿しようと粕川まで来たが、役人の詮議が更に厳しく捕縛されそうになったので粕川の某家に子安観音と偽って預けたものである。
 某家では預かった観音像を子安観音として家の傍に観音堂を造り、粕川の人々と共に信仰してきた。明治になりキリスト教の禁教が解けると、隠れキリシタンの子孫から子安観音は何時しかマリア観音呼ばれるようになった。いくばくかの哀愁を感じさせる顔、迫害された多くのキリシタン、そして洪水と戦いながら逞しく生きてきた粕川の人々の歴史を静かに見守ってきた証人でもある。